2014-08-21
愛の挨拶
自分のブログを読み返して、あまりバンドについて触れてないなって思ったので、バンドの事を自分目線で事細かく書こうと思います。「バンドについてあまり触れない」というのが最近の自分のスタンスだと思っていたから、あんまりバンドの事書くの好きじゃ無かったけど、もう一歩踏み出しても周りの人は喜んでくれそうなので、書く。

「さよなら、また今度ね」というバンドに出会ったのは19歳の時だ。今から3年前。2011年。4月19日。その頃自分は初めてオリジナル曲を作ってバンドをやっていたりした。バンド名は「明日晴れるかな」というバンドだった。当時別に桑田佳祐に影響された訳ではないけど、そういうバンド名だった。若かったので、はしゃいでいたりした。

新松戸という僕の生まれ故郷でライブしたら、とっても下手だけど未来がありそうなバンドがいて、さよなら、また今度ねというバンドらしかった。下手だけど勢いはあったし、オリジナル曲をやっていたりしたので、「高校生の軽音部が学祭以外で初めてライブしたやつなのかな?」とでも思った。でもその人達は2歳年上だった。
僕の出番になって、まだコピーをやっていた僕は当時Demi Lovatoの「La La Land」という曲をコピーしていた。途中、ギターのトレモロアーム(っていうなんか音揺らせる部分があるんだよ)を使って音を揺らしていたら、菅原と佐伯が音を揺らしている僕の真似をしていた。ああ、この人達は知らないんだな、もっとやってあげようって思って嬉しくなって、その日は大袈裟に色んなことをした。
彼らは「リハーサルは上手なのに本番下手」という印象だった。当時菅原は『寝起きで来ちゃいました』みたいなラフ過ぎる格好だったし、佐伯はニキビで茶髪で全然可愛いなんていう印象は皆無だった。そんな印象無かったから、佐伯を可愛いって言ってる方々を見ると今だに「?」とハテナが浮かぶこともある。渋谷に関してはピアスをして黒いワイシャツを着ていたので本当にクソガキの部類だと思った。しかし2こ上だった。
菅原が「えっと、あー、さっきのバンドがよかったです」とMCしていたのが印象的だった。自分達の事だったので嬉しかったが、普通「楽しいバンドが沢山出るので、最後まで楽しんでって下さい!」と言うところを彼はもう出番の終わったバンドを褒めて終了していた。
その日ライブが終わってから「CD下さい」と声を掛けた。100円した。そのCDには変な絵と菅原の住所が書いてあった。

自分はその頃イベンターというわけのわからない仕事をしていて、自分のイベントにさよなら、また今度ねを呼んでいた。イベントに2回誘ったあたりからギターの人が就活で抜けたらしく、菅原とmixiのメッセでやりとりをしていて「また出てくれないか」と頼んだら、「ギターの人が抜けちゃったから、きっくんが弾いてくれたら出るよ!」と返事が返ってきた。「いいですよ!」って言った。8月半ばだった。

じゃあ練習しようってなって、音源を渡された。「窓娘」という曲が最新曲だったらしく、練習してくれと頼まれた。その後の練習で気付いたがそのCDには「びびり」という曲が入っていた。違うやんけ、と笑いながらスタジオで窓娘を練習した。
柏で練習したのだが、帰り、自分のバイクを止めてある場所が施錠されていた。うなだれる自分を見た渋谷悠はその敷地の大きな花壇を頑張りながら、なおかつ迅速に動かして僕のバイクを出してくれた。この人は頭がおかしいんだと思った。

あー長い。もう500文字くらいでおわらせたい。

初めてライブしたのは9/25とかだった気がする。本番で、菅原に「この人はサポートの菊地です」と紹介された。開放弦(どこも抑えないでギター鳴らすやつ)でジャーン!と弾いた。渋谷と佐伯が乗ってくるかと思ったが、そんな事は無く、自分の音だけが虚しく響いた。すると菅原が半ば食い気味に「うるせー!!」とキレてきた。どうしたらいいんだろうと思った。
その日ライブが終わってから正式メンバーになった。その付近あんまりいいこと無かったから、なんだか少し嬉しかった。

その後、直近でまたライブがある、との事だったので、初仕事だなあ、なんて思いながら高円寺に向かった。小さな会場での弾き語りだったらしく、菅原がアコースティックギターを持ってボーカル、佐伯がピアニカで演奏する、との事だった。渋谷はガムテープでぐるぐる巻きにされた後、電飾を纏わされピカピカ光っていた。そんな中僕はその30分間、「ピザを食べる」という事をしていた。Lサイズのピザを2枚食べる事になってしまって、僕はライブが終わってからゲロを吐いた。

もう飽きたのでおわり。

菊地椋介(ギター)

短身痩躯で赤い髪の優男で左頬にある大きな十字傷が特徴である。一見朗らかで少し間の抜けた人物だが、かつては長州派維新志士で、幕末最強とまで謳われた伝説の剣客「人斬り抜刀斎」その人である。修羅さながらに殺人剣を振るい数多くの佐幕派の要人を殺害してきたが、ある不幸な事件から明治維新後は一転して「不殺(ころさず)」を誓い、流浪人(るろうに)として全国を旅し、弱き人たちのために剣を振るっていた。神谷薫との出会いや、同じ激動の時代を生き抜いた宿敵たちとの戦いを通じて、贖罪の答えと新たな時代での生き方を模索していく。

生来争い事を好まない性格だが、戦国時代に端を発する古流剣術飛天御剣流(ひてんみつるぎりゅう)の使い手で、ひとたび戦いとなれば逆刃刀という、峰と刃が逆転した刀で人智を越えた剣技を繰り出し、軍の一個大隊(当時の陸軍一個大隊は約1000?2000人)をも遥かに超える戦闘能力を発揮する。